永井喜市郎
永井旅館の創始者。
白山の名ガイド・ボッカとしても有名でした。
昭和9年の手取川大洪水により家族や全ての財産を失いながら、
一ノ瀬登山口の復興に尽力した人です。
一ノ瀬のはじまり |
そして一ノ瀬に着いた大師一行が、柳谷川を渡り、いよいよ白山開山の一歩を印した時、
これで一つの瀬を渡ったとつぶやいたのが、一ノ瀬の呼称となったと伝えられています。
現在は、市ノ瀬という地名で登山者に親しまれています。
水害前の一ノ瀬部落 |
一ノ瀬部落には白山温泉と一ノ瀬温泉の2つの小さな集落があり、白山温泉の歴史は古く約300年ほど前より登山者の宿場として温泉が使われていました。
一方、一ノ瀬温泉は昭和初期の新温泉で、登山者と砂防工事従事者でにぎわっていました。
当時ここには派出所や床屋まであったので、驚きです。
しかし、昭和9年7月11日の大規模な洪水は
一夜にしてこの集落を飲み込んでしまいました。
一ノ瀬復興に向け |
そんな大災害の中から、喜市郎は水害から逃れた建物を現在の市ノ瀬に移築し、永井旅館の看板を掲げ、一ノ瀬復興ののろしをあげました。
この年の秋、喜市郎は34才で遅咲きの結婚をします。
やがて水害により流失崩壊した道路の改修が成り、資材を運び、現存の2階建ての永井旅館を新築し、登山者を迎えました。
また白山砂防工事復活に向け、工事関係の一ノ瀬基地建設にも世話役として指揮を取りました。
そして、水害からわずか1年の昭和10年7月、一ノ瀬の完全復興となりました。
この年の11月14日、喜市郎に新しい家族が増えました。 その後、喜市郎は白山強力組合の組合長を務め、 後進の指導にも当たりました。
一時期、戦争に海軍としてかり出されましたが、終戦を迎えた昭和23年、永年口に出し想いを馳せ続けた別当出合から登る新道(現観光新道)を開き、途中の急坂を喜市郎坂と名付けました。
そして、昭和37年、白山が国立公園となると別山登山道(現別山市ノ瀬道)の開削を思い立ち、県と強力組合に掛け合い見事県道として登山道を拓きました。
とにかく自他ともに認める白山に関して異常なほど熱意を傾ける人でした。
最後の白山登山 |
そして翌月の8月、心筋梗塞に倒れ、72才で帰らぬ人となりました。
一ノ瀬に生まれ市ノ瀬に育ち、幾多の変転に耐えてこの地に踏みとどまりました。
そして生涯を白山に捧げ尽くしました。
そんな喜市郎の思いが、永井旅館、永井建設の基盤となっています。